嘘で自分の身を守ること。

人は、なぜ、嘘をつくのでしょうか。
考えられる理由は、たくさんありますが 、その根幹は、「じぶんの身を守るため」か、「誰かを守るため」のどちらかだと思います。 今回は、「じぶんの身を守る」ためについて考え、 そして、その後の対策について書きます。

 

嘘からは、なにも得られない
嘘という自己中毒

じぶんの身を守るための嘘。これは、じぶんの体裁や、見栄、 じぶんの過ちや、恥ずかしさを隠すことであったり じぶんの存在を、誇大するときや、楽をしようというときに使うことでしょう。これはほんとうに多くて、ぼくは、こればかりかもしれない。

いろんな場面や、状況で使うので、嘘のかたちも異なってきますね。なので、完璧なじぶんをつくるためには、相当な嘘をつく必要が出てきます。それは、想像しただけで、苦しい状況です。 嘘を何度も重ねて、嘘で固めた結果、 その嘘を崩さないように身を粉にする。 それは、なんの成果も生み出しません。その努力で得られるのは、嘘がばれなかったという事実だけです。じぶんにとって、なんらプラスになることはありません。 ゼロがマイナスになるのを防いでいるだけですから。なので、休まることがありません。 楽になる日がきません。

楽になる日は、嘘がばれたときだけでしょう。そんな日々を積み重ねていると、疲れます。そして、そんなことに時間を費やしていると、じぶんが何のために生きているのかさえ、わからなくなってきます。 もっと、疲れます。 出口がみえません。 書いているだけで、こわくなります。

 

嘘から抜け出す方法1
失うことを覚悟して、白状する

では嘘をつきすぎた状態から抜け出すには、どうしたらいいのか。
白状するか、嘘を現実にするか。 このどちらかです。この二つには、コストが発生します。嘘を白状すると、すべてが崩れます。間違いなく、失います。 仮に、なにかしら、プラスの要素があったとしても<br />嘘の内容によっては、そのプラスさえも失います。 信用を失うんです。これが、白状した場合のコスト。 非常に大きなコストですね。 そして、そのコストを支払ったのちも救いようのない、ダサい、みっともないじぶんとして生きていくことになります。

コストを背負って生きていくことになるということでしょう。でも、そのコストを支払うことによって、嘘に苦しめられることはなくなります。これは、新たなスタートを切り出せるという考え方をすれば<br />とっても大きい成果物ですね。考えただけで、気が楽になります。おそらく、白状するという選択をするためには支払うコストと、そこで得られる嘘からの開放感の度合いを天秤にかける必要が出てくるでしょう。どちらをとるか。 支払うコスト(失う信用)が大きいほど、得られる開放感も比例して大きくなるはずです。そのコストを受け入れられるかどうかが、鍵になるでしょうか。これは、もう覚悟の問題ですね。コストが大きすぎると、失うだけではなく、すべてが終わってしまうかもしれない危険性もはらんでいる。だからこそ、覚悟の問題。

 

嘘から抜け出す方法2
努力することを覚悟して、嘘を現実に

それが、嫌だった場合のもうひとつの選択肢が 嘘を現実にすることです。嘘を現実にするって、ある意味では、 夢をかなえるみたいなものです。そう考えると、けっこうポップな捉え方ができますね。たとえば、ぜんぜん弾けないのに、 ギターがうまいんだっていう嘘をついた場合。練習を重ねて、うまくなればいい。無理ではないですよね。ギターがうまいっていうのも、どのレベルかは わかりませんが、じぶんが思う、うまいまでがんばればいい。それで、ぜんぜんうまくないといわれても、 じぶんにとってはうまいなんだ!っていえばいい。こんな風に嘘を現実にすることは可能です。 しかし、この例からわかるように、現実にするためには 練習という労力が必要になります。これが、嘘を現実にする場合のコストになります。これは嘘の大きさによって、支払う努力の必要性が変わってきます。じぶんには、芸能人の友達がいるといった嘘の場合は かなり努力が必要ですね。でも、実現不可能ではない。 Twitterでコミュニケーションをとってみるとか、イベントに行ってみるといったように いくつか手段、方法が挙げられますから。確かに可能性は低いかもしれない。 でも、実現不可能ではないんです。

 

過去に関する嘘は、白状しかない
でも、白状が生む評価もある

ただ、例外もあります。 過去に関する嘘です。いままでに、付き合ったことがないのに、付き合ったことがあるとか。過去に関する嘘は、タイムマシンがない限りは無理です。現実のように見せるためには、そこに更なる嘘を重ねるしかありません。それでは、嘘から抜け出したいという願望から遠ざかるばかりです。では、どうしたらいいのか。 過去に関する嘘は、白状するしかありません。ただ、過去に関することだから、現実世界で 大きな問題にはなりづらいから、わざわざ露呈させてなくてもいい嘘も多々あるとは思いますが。でも、じぶんが苦しいから、あえて言うというのはありかもしれません。こういう場合、じぶんが苦しいというか、気持ち悪いといったほうがいいかもしれませんね。そういうときは、覚悟して、伝える必要がある。しかし、白状しなくてもいい嘘をあえて言うという行為は誠意の表れでもありますよね。いままで考えたとおり、白状するという行為は 覚悟の行為です。なので、白状する相手には”覚悟”しての行為なんだと<br />受け取ってもらえるかもしれない。そういう意味では、白状することで、 評価されることもありえます。学校の先生が、悪いことを白状した生徒を評価するみたいに。じぶんの身を守るための嘘はじぶんよがりなものですから、けして褒められたものではありません。しかし、その嘘に苦しめられるということは、周りに申し訳ないという気持ちがあるからですよね。だから、その気持ちを抱いただけ、まだ救いがあるように思うのです。良心の呵責があるかぎり、大丈夫な気がします。あとは、そこから抜け出すためにどのような行動をとるのか。そして、どのような覚悟をするのかによります。すべてはじぶん次第です。